ひびのあわ

消えないあぶくはどこにある

心象による拉致

「覚えておきたまえ。殴られたり侮辱されたりしたから傷つくのではなく、傷ついたと思うから傷つくのである」 

        エピクテトス「提要」より

 

 すべては捉え方次第である。

 

 エピクテトス古代ローマ人で、脚が不自由だった。そして元奴隷という経歴を持ちながらストア哲学を修め、自らの学校を開いた偉人だ。

 

 一見すると同情してしまうような境遇を持ちながら、彼はその運命を恨んだりはしなかった。

 

 「心象による拉致」というのは彼が好んで使った言葉だ。

 

 まず心象というのは、ある物事から最初に感じる感情である。例えば、他人から侮辱されたとしよう。最初に湧き上がる感情はなんだろうか。怒り、悲しみ、苛立ち、などではないか。

 

 ではもしその心象に流されてしまえば、その後にとる行動はなんだろう。侮辱し返す、殴る、などかもしれない。

 

 最初に抱いた感情に流されて行動をとってしまう、これが「心象による拉致」だ。

 

 エピクテトスはこれをたしなめる。

 

 彼は言うだろう。「君が傷ついたと思うから傷つくのだ」と。

 

 自分の感情を離れたところから、他人事のように観察する。これは仏教にも見られる考え方で、瞑想もこれを目的として行われる。心理学ではメタ認知という用語で知られている。

 

 心象に拉致されないためには、メタ認知を鍛えることだ。そうすることで、自分の抱いた感情をしっかりと捉え、それに流されないようにすることができる。

 

 心象を抱く、反応する。この流れに一つの休符を置く。これを心がけるだけで大きな余裕が生まれる。

 

 心象は自分自身ではない。自分の思考ですらない。ただの反射的なものだ。

 

 侮辱、冷笑にまともに取り合うな。そんなものはジョークで返してやればいい。

「それはまるで骨のように 私を通る強い直線 私を燃やして残るもの」 黒木渚 「骨」より

 

「神は死んだ」と言った哲学者がいる。

 

 進化論より端を発する宗教の力の弱化、という現象は当たり前のように受け止められている。科学が神になり変わり、世界を支配するようになった。

 

 今なお宗教による争いは絶えないが、着実にその影響力は少なくなった。いまや人々の行動規範は仏典や聖書、コーランではなくなりつつある。

 

 無神論実存主義がもてはやされ、人間個々の考え方を最上のものとする時代だ。

 

 ニーチェは古い価値観を背負っている人々をラクダに例えて批判した。彼の理想は、誰かのではなく自分の考えに沿って行動する「赤ん坊」的無垢さである。

 

 しかし、私はラクダたちの背中に乗っていた宗教という行動規範はなにか別のものにすり替わっている気がしてならない。

 

 SNSを見る。インフルエンサーと呼ばれる人がいる。そしてそこに何万人ものフォロワーがいる。彼らは批判的にインフルエンサーを見ることはしない。インフルエンサーの言葉は絶対であり、リプライ欄は賛同の声で溢れる。

 

 私は、神は死んだのではなくむしろ分裂し増え続けているような感触を覚えた。

 

 多様な価値観や考え方が尊重される時代にはなった。しかし、「自由」というのは一般人にとって重すぎる荷物である。不安から、意思決定を何者かに委ねるのが人間の性だ。誰かのような格好をし、誰かの真似をした喋り方をする。

 

 結局、人々は自分に合ったカミサマを見つけ、崇拝するしかない。これが現代の宗教で、インフルエンサーを使ったカネを産み続けるシステムだ。

 

 別に批判をしているわけではない。昔から人は何かに寄り掛かりたくなるものだし、今後もそうだろう。問題は何を信じるかだ。

 

 私は実存主義を信じていたし、今は奴隷の哲学者を信じている。村上春樹の優しい言葉や、秋田ひろむの力強い声も。

 

 しかし、借り物ではやはりダメだ。結局は、言葉と知識の貪食の末に私は、私にとっての骨を作り出さなければならない。

 

 私の真ん中を通る強い直線。私を燃やして残るもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

成功、失敗に意味はないぜ

 「遍く挫折に光あれ 成功、失敗に意味はないぜ」

               amazarashi/秋田ひろむ 

 

 

 アリストテレスはこう説いた。

 ”幸福のために最も必要なものは美徳である。しかし幸福には、富、健康、見た目の良さなど様々な要素が関わってくる”

 一方、ディオゲネスはこう説いた。

”幸福のために必要なものは美徳のみである。その他の要素は善く生きることへの妨げでしかない”

 

 どちらが正しいのだろうか。もちろん、どちらにも問題がある。

 

 アリストテレスの考え方には、どれだけ恵まれていても満足できず、さらなる富を求めてしまう。いわゆる”快楽のランニングマシン”の上を走ることに繋がる。

 一方ディオゲネスは富を毛嫌いし、一生を桶の中で過ごしたという。誰がそんな生活を真似できるだろうか。

 

 その二つの考え方を昇華させたのがストア哲学だ。ストア哲学では、富などの要素は”好ましい無関係”と呼ばれる。一見矛盾した言葉のように思えるが、その言葉はアリストテレスディオゲネスの問題をうまく解決している。

 

 ”好ましい無関係”とは、幸福において真に必要なのは美徳だけだが、富などの他の要素もあっても良い、という考えだ。つまり、幸福の要件は美徳であって富ではない。だが、美徳を損ねない範囲での富の追求は認められるということである。

 

 これは経済学で「辞書式選好」と呼ばれている。例えば、自分の娘を売ろうとする親はいないだろう。たとえどれだけのお金を積まれても。

 この場合、「娘」は美徳で、「金」は富だ。富は好ましいものだが、本当に大切なものとは無関係である。”好ましい無関係”とはそういうことだ。反対に、病気や貧乏などは好ましくない無関係となる。

 

 この考え方の何が素晴らしいかといえば、失敗した時の励ましに、また成功した時の警鐘になるということだ。大きな失敗をしたとしても、それも幸福とは無関係なものなので気にしなくていい。ビジネスで大金を稼いでも、それは好ましいことではあるが真の幸福とは無関係だ。真の幸福は常に美徳の実践とともにある。

 

 そう捉えれば、成功、失敗に意味はない。そう言えないだろうか?

 

 最初の言葉は、秋田ひろむが菅田将暉に楽曲提供した”ロングホープ・フィリア”の一節だ。この言葉の真意を考えた結果、ストア哲学に行き着いたが、こんな考察では彼の計り知れない洞察力に近づいてもいないのだろう。

 

 最近、挑戦をする前にはこの言葉を繰り返す。成功、失敗に意味はない。成功、失敗に意味はない......