ひびのあわ

消えないあぶくはどこにある

分人主義 平野啓一郎「私とは何か」より

あなたは永遠に理解できないだろう。他人の中にも自分が存在することを。

                    イ・ヨンド 「ドラゴンラージャ」

 

メンタルが病みやすい人の言葉遣いを調べた研究がある。その研究によれば、一人称を多く使う人は不安や鬱の症状になりやすいらしい。

 

自分に焦点を合わせている、自己注目の状態は基本的にメンタルに悪影響を及ぼす。

 

人間は進化の過程で、ネガティブなものにより反応してしまうという能力を身につけた。

なぜかといえば、ネガティブなものに反応できた個体しか生き残れなかったから。

木の実の存在に気を取られてその木陰に猛獣が潜んでいることに気がつかない個体は、生存していくことが難しかっただろう。私たちは臆病者の子孫である。

 

そのネガティブなものに敏感に反応してしまう目で自己を見つめれば、いい点よりも悪い点の方が目立つのは当然といえる。はじめは自分の良い部分ばかり見ていても、やがてネガティブなモノを見つけるという太古からの機能が働き始めるだろう。

 

ここから導き出されるのは、自己本位の生き方はとても辛く、難しいということだ。

自分のことだけを考えることは、幸せから遠ざかる最良の手段と言える。

 

しかし、自分のことしか考えられない、エゴの肥大した俺のような人間はどうしたら幸せになれるのだろうか。どうすれば、他人と向き合うことができるのか。そして、人間そのものを愛せるのか。

 

自己を再定義する、それが最終的な結論だ。

 

作家・平野啓一郎は著書「私とは何か」の中で「分人主義」というものを唱えている。

 

分人主義を簡単に説明すると、「自己をそれ以上な分割できない個人(=individual)ではなく、分割可能な分人(=dividual)の総体と捉えよう」という思想だ。

 

人間は分人の集合体である。では、分人とは何か?

 

例えば、Aさんという人と知り合ったとする。Aさんと長い時間付き合い、仲良くなり始めた時、「Aさんに対する分人」ができる。そして、総体としての自分の中に「Aさんに対する分人」が加わり、分人の構成比率が変化することで総体としての自分も変化していく。

 

分人とはつまり、「その人と接している時の自分」のことだ。

 

心理学でいうペルソナに近いが、あれは「真の自分」が仮面を使い分けているという考え方なので、真の自分というものを認めない分人主義とは似て非なるものである。

 

Aさんと仲良くなる過程で生まれた分人は、自分一人の力で作られたものではない。

私とAさん、双方の関わり合いの中(相互作用)で生まれたものである。そういった意味で、分人の一部分はAさんで構成されていると考えてもいい。

 

つまり、人は知らず知らずのうちに、他者を自分の中に取り込んでいる。

相手も分人の集合体である以上、相手の中にも自分は存在している。

 

つまり、自分を愛することは他者を愛することと同義だ。

他者を愛することは自分を愛することと同義だ。

あなたがもし自分を愛せているなら、あなたの周りの人々に感謝したほうがいい。

あなたは彼らとの分人で構成されている。

 

この考えは何も科学的に根拠のない話ではない。自己というものが脳の機能で現れたり消えたりするものだと知っていれば、誰かと会うたびに「その人向けの自己」が再構築されるのもおかしな話ではないとわかる。その再構築の材料に使われるのは、その人との記憶だ。

 

同郷の友人と会えば、長い間忘れていた方言を勝手に口が話し出すかもしれない。

自分をいじめていた人と再会した時、急にいじめられていた時に戻ったような、無力感に襲われるかもしれない。

 

これらは全て脳の自己生成機能によるものだと考えば理解しやすい。

 

私たちは誰かが悪事を働くと、それが本性だったんだと勘違いしやすい。

 

「ネットで悪口を書くようなやつだったなんて、本当はそんなやつなんだな」

「どこにでもいる真面目な子でした、まさかあの子が」

 

だが、本当の自分なんてものは存在しない。ネット向きの分人、凶悪な分人を一部に持っていただけだ。

 

この考え方に出会って、小学生の時に大好きだったある小説の中の言葉を思い出した。

 

私は単数ではない

 

つづく