人生の無意味さと向き合う 存在意義不在
人生への絶望なしに、人生への愛はない
35億年前、地球上にある物質が誕生した。
その物質は自らを複製するという性質を持っていたため、地球上のあらゆる場所で繁栄することとなった。次第に、ただ複製を繰り返すのではなく、多様性を持つことで環境に適応することができるようになり、さらには自分たちの”乗り物”を持つようになった。
その”乗り物”は、物質を後世まで残すためだけに作られ、乗り捨てられる運命にある。
その物質とは「遺伝子」であり、乗り物とは「生命」である。
「生命は遺伝子の奴隷である」
1967年、そんな画期的な論を説いた、リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」は全世界を揺るがし、今なお科学界の必読本として読み継がれている。
彼のもとには読書からの手紙が殺到したという。
「なんのために生きているのかわからなくなった」
当然、人間も遺伝子の方舟である以上、特に生きている意味というものは存在しない(強いていうなら子孫を残すことにある)。
だからこそ、哲学というものが今に至るまで残っているのだ。
実存は本質に先立つ、という言葉がある。
実存主義と呼ばれる哲学者たちはこう説いた。
スプーンの本質は、ものをすくうところにある。
では人間の本質はなんだろうか。
スプーンと人間との違いは、「スプーンはものをすくうためにつくられた」という点にある。
人間は、何かをするために生まれるのではない。人間として生まれてから、本質が作られていく。これが実存は本質に先立つという意味だ。
なるほど、では自分の存在意義は自分で作り出すしかないのか。
高校生だった俺は、ニーチェの哲学を読みかじってそう思った。
そこから実存主義に傾倒し、世間から与えられた価値観を否定するようになった。
続く