ひびのあわ

消えないあぶくはどこにある

人生の無意味さと向き合う 存在意義不在

人生への絶望なしに、人生への愛はない

                アルベール・カミュ

 

35億年前、地球上にある物質が誕生した。

その物質は自らを複製するという性質を持っていたため、地球上のあらゆる場所で繁栄することとなった。次第に、ただ複製を繰り返すのではなく、多様性を持つことで環境に適応することができるようになり、さらには自分たちの”乗り物”を持つようになった。

その”乗り物”は、物質を後世まで残すためだけに作られ、乗り捨てられる運命にある。

 

その物質とは「遺伝子」であり、乗り物とは「生命」である。

 

「生命は遺伝子の奴隷である」

1967年、そんな画期的な論を説いた、リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」は全世界を揺るがし、今なお科学界の必読本として読み継がれている。

 

彼のもとには読書からの手紙が殺到したという。

 

「なんのために生きているのかわからなくなった」

 

当然、人間も遺伝子の方舟である以上、特に生きている意味というものは存在しない(強いていうなら子孫を残すことにある)。

だからこそ、哲学というものが今に至るまで残っているのだ。

 

実存は本質に先立つ、という言葉がある。

 

実存主義と呼ばれる哲学者たちはこう説いた。

 

スプーンの本質は、ものをすくうところにある。

では人間の本質はなんだろうか。

 

スプーンと人間との違いは、「スプーンはものをすくうためにつくられた」という点にある。

人間は、何かをするために生まれるのではない。人間として生まれてから、本質が作られていく。これが実存は本質に先立つという意味だ。

 

なるほど、では自分の存在意義は自分で作り出すしかないのか。

高校生だった俺は、ニーチェの哲学を読みかじってそう思った。

そこから実存主義に傾倒し、世間から与えられた価値観を否定するようになった。

 

続く