分人主義 私は単数ではない
お互いを認め合うべきだと 懐から取り出す 共感を見て
いや そんな危険かもしれないものには頼れるか
amazarashi 抒情死
これまで、自己が地獄を作り出していることや、自己に注目することで起こる不安、外に目を向ける必要性を説いてきた。
分人主義という自己の再定義を行なった上で、いよいよ外に目を向けていきたい。
俺が目指したのは博愛であり、もっと単純にいうなら全ての人への愛情である。
博愛というものは、確かにあるんだとおばあちゃんが教えてくれた。
他人に愛情を向ける手段として、よく使われるのが共感である。
そして、他人に銃を向けさせるのも共感だ、ということはあまり知られていない。
共感とは、その人の気持ちになってみることである。
白血病に苦しむ少女のドキュメンタリーを見て、共感し、涙が出てくる。「幼い彼女の気持ちになってみてください」ナレーターは言う。名医に手術をしてもらわなければ命が助からないが、他にも大勢その名医を待っている患者がいるため、手術まで命がもつかわからない。どうにかして順番を飛ばして先に手術してもらえないだろうか。
そんな気持ちになるのは当然のことである。
そして、それが共感の恐ろしい部分だ。
他の順番待ちの患者はどうなるだろうか。もしかしたら、その少女よりももっと切羽詰まった病状の患者がいるかもしれない。それなのに1時間のドキュメンタリーを見ただけで命の序列を決めてしまうことができる。
これは実際に行われた実験だ。ドキュメンタリーを見た後に少女の順番を早めさせた被験者は大多数だった。
共感は、スポットライトだ。一箇所に視線を集め、その他を見えなくさせてしまう。
俺がテレビなどのメディアを見ないこともこれが理由だ。
"愛情ホルモン"オキシトシンが、人間の分断本能を起動させる。
過激なフェミニストは虐げられる女性に共感し、男が全員敵に見える。
普通は戦時でも人は銃を撃たない。発砲率が高いのは仲間との絆が深い軍隊だ。
何よりも危険なのは、自分で自分に共感することである。
自分の周りの全てが敵に見え、いっとき心を許してもちょっとしたことから裏切られたと感じ関係を断ってしまう。
「自分に同情するな」が村上春樹から教わった一番大事な言葉だ。
少し話が逸れたが、要するに共感など不要だということだ。
代わりに分人主義を用いて、視線を自己の外に向ける。
俺は小学生の時は友達がいなかったのでずっと図書館で本を読んでいた。
その中で最も好きだったファンタジー小説「ドラゴンラージャ」の中に、こんな言葉が繰り返し出てくる。
私は単数ではない
小学生だった頃はこの言葉の意味がよくわからず、「なんか深そうな言葉だな」とだけ思っていた。
この言葉を使ったのは、人間だけでなくフェアリー、ドラゴン、オーク、エルフ、全ての種族を愛した大魔術師ハンドレイクだ。彼は全ての種族のために、ドラゴンロードという独裁者を倒そうとしていた。
ハンドレイクは、自分を愛するフェアリークイーンに言った。
「私を愛そうとするなら、大王の遠大な希望をともに遂行するハンドレイク、ルトエリノの人間的葛藤に胸を痛めるハンドレイク、バイサス軍の勝利のために命をかけるハンドレイク、史上はじめてクラス10の魔法を作ろうと努力するハンドレイク、ドラゴンロードを倒すためなら死をもいとわないハンドレイク、このすべてを愛さなければならない」
フェアリークイーンはこう返した。
「私には、そんなにたくさんのハーンを理解できないわ」
「自分を捨ててまで、なぜそんなに彼らに尽くそうとするの?」
ハンドレイクはこう言った。
「あなたは永遠に理解できないだろう。他人の中にも自分が存在することを」
ハンドレイクは、分人主義者だった。そして、全ての種族に自分を見ていたからこそ、彼らを愛せた。
これが博愛か。でも俺は大魔術師じゃない。全ての人に自分を見いだせないし、人の全ての分人を愛するなんてことはできそうにない。
それなら、一部ならどうだろうか?
電車で目の前に座っているおじさんは、家に帰れば娘たちのヒーローかもしれない。
ネットで悪意を撒き散らしている人だって、誰かの愛する息子や娘のはずだ。
人と接する時に、一面しか見えていないことに気がつかなければならない。
その裏にはたくさんの分人が隠れていることにも。
私は単数ではない。全ての人間は単数ではない。
そう考えることができた時から、少し人が好きになった。
そんな気がする。
分人主義は、自己と他者の境界を曖昧にし、目線を外に向けさせる。その考えをまとめたくて、ブログを書き始めた。
分人主義編は終わりだが、まだ無意味編と無常編がある。
俺の哲学は三本の柱でできているので。