ひびのあわ

消えないあぶくはどこにある

分人主義 自己について

 地獄は頭の中にある

             伊藤計劃 「虐殺器官

 

自己、というのは人間だけが持つ感情らしい。

進化心理学によれば、孤独や怒りと同じく、人間は複雑なコミュニティの中で自己という感情を進化させてきた。

 

「私は私だ」「あなたと私は違う」

 

こんなことを考えられるのは人間だけだ。そのおかげで、「私はこう考えていると彼は考えているだろう」といった複雑な思考が可能になり、高度で巨大な社会を築き上げた。そして、ある意味では地獄が始まったとも言える。人間の頭の中で。

 

人間は自己というものがあるせいで、三つの世界を生きなければならない。

過去、現在、未来。

 

「空を飛ぶ鳥は現在の苦しみしか感じない。

だが、三世に生きる人間は三つの苦しみを感じながら生きている。」

 

これは夏目漱石の言葉だ。動物が過去を悔やむだろうか?未来を想像して不安に駆られるだろうか?そんなことをできるのは「私」を持つ人間だけだ。

 

自己というのは感情と時間の基準点として働く。例えば、上司に怒られたとしよう。頭の中で反芻される言葉は、

 

なんで「私」が

「私」は悪くない

 

そういえば前にも「私」は同じミスをした

「私」はダメな人間なのかもしれない

 

「私」を中心に感情は広がり、その波は過去や未来にまで届く。そのせいで、現在を生きるということはとてつもなく難しいこととなった。

山月記に、自尊心と羞恥心から虎になってしまった男が出てくる。自分の過去の成功を省みて現在を見ることができなかった彼が、現在しか見据えることのできない動物になってしまったのは喜劇的でもある。

 

自己が持つこうした性質を見抜いた仏陀「無我」を説いた。

「私」を無くしてしまえばそこにあるのはおだやかな今だけだ。

 

私を無くすとはどういう状況か?

 

俺はバスケットボールの試合中、いわゆるゾーンに入れたと感じた瞬間があった。

自分と周囲が一体となり、何をすればよいのか頭ではなく体がわかっている状態。

面白い映画を見た時、思わず我を忘れて見入った経験が誰にでもあるだろう。

その時と同じような感覚だった。

その瞬間、自己というものは感じられなかった。

 

自己は不変のものではない。絶えず現れては消えるものである。

それが一貫して感じられるのはまさに自己のなせるわざだ。

 

自己の発生を抑え、無我を目指す。仏教は、そのためのテクニックを何千年も磨いてきた。瞑想、滝行、禅問答など。

 

しかし、そう簡単に無我の境地には至れない。

 

自己を無くそうとすると副作用も出てくるのだ。無我になろうとしているのに余計に自己に気を取られたり、他者との繋がりを感じ取れなくなってしまうことがある。俺はこうした副作用にどっぷり浸かってしまっていた。

 

自己注目(自分に注目している状態を指す心理学の用語)は精神に多大な負担をもたらす。

自己を越えるためには、自分の外に目を向けなければならない。

 

分人主義。続く。