ひびのあわ

消えないあぶくはどこにある

人間賛歌

希望があるところには必ず試練があるものだから。

                    1Q84 / 村上春樹

 

 暇すぎるから短編小説でも書こうとしたが進まない。チェーホフの言葉で、小説家とは問題を解決するのではなく問題を提起する人だ、というのがあるが俺はどうやら解決したいらしい。

 

 数年前から生きている意味についてずっと考えている。なぜだろうか。それはおそらく生きている意味がないとこの先の人生の試練に耐えられないと考えているからだろう。

 

夜と霧の著者、フランクルは下の公式を作った。

 

苦悩 - 意味 = 絶望

 

等式なので当然以下も真

 

絶望 + 意味 = 苦悩

 

 絶望した時にそれを苦悩と呼べる意味が欲しかった。しかし生きている意味などは存在しないので大変困った。生きる意味は自分で作るものだ、などと言われても困ってしまう。

 

 発想を変えてみる。生きる意味を問うのはどのような時か?試練を与えられた時だ。それなら、人生の意味を問うよりもその試練を解決する方に全力を注いだ方が良いのではないか?では全力を注いでもその試練を解決できなかったら?それはもはや試練というよりも単なる不条理なのでさっさと逃げ出せばいいんじゃないか?最近はこう考えている。

 

「いや、生きる意味は普段から必要なのではないか?例えば長期的目標に取り組む場合など。偉人たちは人生の意味を掲げて様々な偉業を成し遂げているではないか。やはり何かを決断してその物事に全力を捧げればいいのでは?」

 

上記はハイデガーの思想だ。もちろん偉業を成し遂げなければならない理由なんてないので、やはり人生に意味などいらない。そもそも上記の発想が正しければ、なんらかの宗教やイデオロギーを盲信しそれに殉ずる、つまりテロリストが一番幸福になるということではないのか。実際にハイデガーもナチ党員としてファシズムに傾倒していったし。試練もないのに人生の意味を考えるなんてことは馬鹿げている。そもそも実現すべき理想を追っている時が一番幸せなんて本末転倒だ。

 

 人生に意味を問うたら終わりだ、って価値観で虫を潰した

 

「意味は与えられるものだ」フランクルの思想は好きではないが、この言葉は正しいと思う。

生きるために理由はいらない。でも、生きる意味は後からついてくるだろう。これが現時点での正解か。だから、人生に果たして全うするほどの価値があるのかなんて考えず、生き延びてくれ。

 

「君は昔、なぜ僕がそんなに本を読んでいるのかと聞いたね。ずっと生きる理由を探してたんだ。僕が死ななければならない理由を、上回るだけの。目を凝らして、耳を澄ませて、生きる希望を小説の一節のなかにずっと探していた。ねえ、そんな足し算引き算の繰り返しが僕の人生だったんだよ。」

「それって、生きたいってのと何が違うのよ?」

 

人間賛歌

希望があるところには必ず試練があるものだから。

               1Q84 / 村上春樹

 

 暇すぎるから短編小説でも書こうとしたが進まない。チェーホフの言葉で、小説家とは問題を解決するのではなく問題を提起する人だ、というのがあるが俺はどうやら解決したいらしい。

 

 数年前から生きている意味についてずっと考えている。なぜだろうか。それはおそらく生きている意味がないとこの先の人生の試練に耐えられないと考えているからだろう。

 

夜と霧の著者、フランクルは下の公式を作った。

 

苦悩 - 意味 = 絶望

 

等式なので当然以下も真

 

絶望 + 意味 = 苦悩

 

 絶望した時にそれを苦悩と呼べる意味が欲しかった。しかし生きている意味などは存在しないので大変困った。生きる意味は自分で作るものだ、などと言われても困ってしまう。

 

 発想を変えてみる。生きる意味を問うのはどのような時か?試練を与えられた時だ。それなら、人生の意味を問うよりもその試練を解決する方に全力を注いだ方が良いのではないか?では全力を注いでもその試練を解決できなかったら?それはもはや試練というよりも単なる不条理なのでさっさと逃げ出せばいいんじゃないか?最近はこう考えている。

 

「いや、生きる意味は普段から必要なのではないか?例えば長期的目標に取り組む場合など。偉人たちは人生の意味を掲げて様々な偉業を成し遂げているではないか。やはり何かを決断してその物事に全力を捧げればいいのでは?」

 

上記はハイデガーの思想だ。もちろん偉業を成し遂げなければならない理由なんてないので、やはり人生に意味などいらない。そもそも上記の発想が正しければ、なんらかの宗教やイデオロギーを盲信しそれに殉ずる、つまりテロリストが一番幸福になるということではないのか。実際にハイデガーもナチ党員としてファシズムに傾倒していったし。試練もないのに人生の意味を考えるなんてことは馬鹿げている。そもそも実現すべき理想を追っている時が一番幸せなんて本末転倒だ。

 

 人生に意味を問うたら終わりだ、って価値観で虫を潰した

 

「意味は与えられるものだ」フランクルの思想は好きではないが、この言葉は正しいと思う。

生きるために理由はいらない。でも、生きる意味は後からついてくるだろう。これが現時点での正解か。だから、人生に果たして全うするほどの価値があるのかなんて考えず、生き延びてくれ。

 

「君は昔、なぜ僕がそんなに本を読んでいるのかと聞いたね。ずっと生きる理由を探してたんだ。僕が死ななければならない理由を、上回るだけの。目を凝らして、耳を澄ませて、小説の一節のなかにずっと探していた。ねえ、そんな足し算引き算の繰り返しが僕の人生だったんだよ。」

「それって、生きたいってのと何が違うのよ?」

 

人生の無意味さと向き合う 存在意義不在

人生への絶望なしに、人生への愛はない

                アルベール・カミュ

 

35億年前、地球上にある物質が誕生した。

その物質は自らを複製するという性質を持っていたため、地球上のあらゆる場所で繁栄することとなった。次第に、ただ複製を繰り返すのではなく、多様性を持つことで環境に適応することができるようになり、さらには自分たちの”乗り物”を持つようになった。

その”乗り物”は、物質を後世まで残すためだけに作られ、乗り捨てられる運命にある。

 

その物質とは「遺伝子」であり、乗り物とは「生命」である。

 

「生命は遺伝子の奴隷である」

1967年、そんな画期的な論を説いた、リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」は全世界を揺るがし、今なお科学界の必読本として読み継がれている。

 

彼のもとには読書からの手紙が殺到したという。

 

「なんのために生きているのかわからなくなった」

 

当然、人間も遺伝子の方舟である以上、特に生きている意味というものは存在しない(強いていうなら子孫を残すことにある)。

だからこそ、哲学というものが今に至るまで残っているのだ。

 

実存は本質に先立つ、という言葉がある。

 

実存主義と呼ばれる哲学者たちはこう説いた。

 

スプーンの本質は、ものをすくうところにある。

では人間の本質はなんだろうか。

 

スプーンと人間との違いは、「スプーンはものをすくうためにつくられた」という点にある。

人間は、何かをするために生まれるのではない。人間として生まれてから、本質が作られていく。これが実存は本質に先立つという意味だ。

 

なるほど、では自分の存在意義は自分で作り出すしかないのか。

高校生だった俺は、ニーチェの哲学を読みかじってそう思った。

そこから実存主義に傾倒し、世間から与えられた価値観を否定するようになった。

 

続く

 

 

分人主義 私は単数ではない

お互いを認め合うべきだと 懐から取り出す 共感を見て

いや そんな危険かもしれないものには頼れるか 

                 amazarashi  抒情死

 

これまで、自己が地獄を作り出していることや、自己に注目することで起こる不安、外に目を向ける必要性を説いてきた。

分人主義という自己の再定義を行なった上で、いよいよ外に目を向けていきたい。

 

俺が目指したのは博愛であり、もっと単純にいうなら全ての人への愛情である。

博愛というものは、確かにあるんだとおばあちゃんが教えてくれた。

 

他人に愛情を向ける手段として、よく使われるのが共感である。

そして、他人に銃を向けさせるのも共感だ、ということはあまり知られていない。

 

共感とは、その人の気持ちになってみることである。

 

白血病に苦しむ少女のドキュメンタリーを見て、共感し、涙が出てくる。「幼い彼女の気持ちになってみてください」ナレーターは言う。名医に手術をしてもらわなければ命が助からないが、他にも大勢その名医を待っている患者がいるため、手術まで命がもつかわからない。どうにかして順番を飛ばして先に手術してもらえないだろうか。

 

そんな気持ちになるのは当然のことである。

そして、それが共感の恐ろしい部分だ。

 

他の順番待ちの患者はどうなるだろうか。もしかしたら、その少女よりももっと切羽詰まった病状の患者がいるかもしれない。それなのに1時間のドキュメンタリーを見ただけで命の序列を決めてしまうことができる。

 

これは実際に行われた実験だ。ドキュメンタリーを見た後に少女の順番を早めさせた被験者は大多数だった。

 

共感は、スポットライトだ。一箇所に視線を集め、その他を見えなくさせてしまう。

俺がテレビなどのメディアを見ないこともこれが理由だ。

"愛情ホルモン"オキシトシンが、人間の分断本能を起動させる。

 

過激なフェミニストは虐げられる女性に共感し、男が全員敵に見える。

普通は戦時でも人は銃を撃たない。発砲率が高いのは仲間との絆が深い軍隊だ。

 

何よりも危険なのは、自分で自分に共感することである。

自分の周りの全てが敵に見え、いっとき心を許してもちょっとしたことから裏切られたと感じ関係を断ってしまう。

「自分に同情するな」が村上春樹から教わった一番大事な言葉だ。

 

少し話が逸れたが、要するに共感など不要だということだ。

代わりに分人主義を用いて、視線を自己の外に向ける。

 

俺は小学生の時は友達がいなかったのでずっと図書館で本を読んでいた。

その中で最も好きだったファンタジー小説「ドラゴンラージャ」の中に、こんな言葉が繰り返し出てくる。

 

私は単数ではない

 

小学生だった頃はこの言葉の意味がよくわからず、「なんか深そうな言葉だな」とだけ思っていた。

 

この言葉を使ったのは、人間だけでなくフェアリー、ドラゴン、オーク、エルフ、全ての種族を愛した大魔術師ハンドレイクだ。彼は全ての種族のために、ドラゴンロードという独裁者を倒そうとしていた。

 

ハンドレイクは、自分を愛するフェアリークイーンに言った。

「私を愛そうとするなら、大王の遠大な希望をともに遂行するハンドレイク、ルトエリノの人間的葛藤に胸を痛めるハンドレイク、バイサス軍の勝利のために命をかけるハンドレイク、史上はじめてクラス10の魔法を作ろうと努力するハンドレイク、ドラゴンロードを倒すためなら死をもいとわないハンドレイク、このすべてを愛さなければならない」

 

フェアリークイーンはこう返した。

「私には、そんなにたくさんのハーンを理解できないわ」

「自分を捨ててまで、なぜそんなに彼らに尽くそうとするの?」

 

ハンドレイクはこう言った。

「あなたは永遠に理解できないだろう。他人の中にも自分が存在することを」

 

ハンドレイクは、分人主義者だった。そして、全ての種族に自分を見ていたからこそ、彼らを愛せた。

 

これが博愛か。でも俺は大魔術師じゃない。全ての人に自分を見いだせないし、人の全ての分人を愛するなんてことはできそうにない。

それなら、一部ならどうだろうか?

 

電車で目の前に座っているおじさんは、家に帰れば娘たちのヒーローかもしれない。

ネットで悪意を撒き散らしている人だって、誰かの愛する息子や娘のはずだ。

 

人と接する時に、一面しか見えていないことに気がつかなければならない。

その裏にはたくさんの分人が隠れていることにも。

 

私は単数ではない。全ての人間は単数ではない。

 

そう考えることができた時から、少し人が好きになった。

そんな気がする。

 

分人主義は、自己と他者の境界を曖昧にし、目線を外に向けさせる。その考えをまとめたくて、ブログを書き始めた。

 

分人主義編は終わりだが、まだ無意味編と無常編がある。

俺の哲学は三本の柱でできているので。

 

 

 

 

 

分人主義 平野啓一郎「私とは何か」より

あなたは永遠に理解できないだろう。他人の中にも自分が存在することを。

                    イ・ヨンド 「ドラゴンラージャ」

 

メンタルが病みやすい人の言葉遣いを調べた研究がある。その研究によれば、一人称を多く使う人は不安や鬱の症状になりやすいらしい。

 

自分に焦点を合わせている、自己注目の状態は基本的にメンタルに悪影響を及ぼす。

 

人間は進化の過程で、ネガティブなものにより反応してしまうという能力を身につけた。

なぜかといえば、ネガティブなものに反応できた個体しか生き残れなかったから。

木の実の存在に気を取られてその木陰に猛獣が潜んでいることに気がつかない個体は、生存していくことが難しかっただろう。私たちは臆病者の子孫である。

 

そのネガティブなものに敏感に反応してしまう目で自己を見つめれば、いい点よりも悪い点の方が目立つのは当然といえる。はじめは自分の良い部分ばかり見ていても、やがてネガティブなモノを見つけるという太古からの機能が働き始めるだろう。

 

ここから導き出されるのは、自己本位の生き方はとても辛く、難しいということだ。

自分のことだけを考えることは、幸せから遠ざかる最良の手段と言える。

 

しかし、自分のことしか考えられない、エゴの肥大した俺のような人間はどうしたら幸せになれるのだろうか。どうすれば、他人と向き合うことができるのか。そして、人間そのものを愛せるのか。

 

自己を再定義する、それが最終的な結論だ。

 

作家・平野啓一郎は著書「私とは何か」の中で「分人主義」というものを唱えている。

 

分人主義を簡単に説明すると、「自己をそれ以上な分割できない個人(=individual)ではなく、分割可能な分人(=dividual)の総体と捉えよう」という思想だ。

 

人間は分人の集合体である。では、分人とは何か?

 

例えば、Aさんという人と知り合ったとする。Aさんと長い時間付き合い、仲良くなり始めた時、「Aさんに対する分人」ができる。そして、総体としての自分の中に「Aさんに対する分人」が加わり、分人の構成比率が変化することで総体としての自分も変化していく。

 

分人とはつまり、「その人と接している時の自分」のことだ。

 

心理学でいうペルソナに近いが、あれは「真の自分」が仮面を使い分けているという考え方なので、真の自分というものを認めない分人主義とは似て非なるものである。

 

Aさんと仲良くなる過程で生まれた分人は、自分一人の力で作られたものではない。

私とAさん、双方の関わり合いの中(相互作用)で生まれたものである。そういった意味で、分人の一部分はAさんで構成されていると考えてもいい。

 

つまり、人は知らず知らずのうちに、他者を自分の中に取り込んでいる。

相手も分人の集合体である以上、相手の中にも自分は存在している。

 

つまり、自分を愛することは他者を愛することと同義だ。

他者を愛することは自分を愛することと同義だ。

あなたがもし自分を愛せているなら、あなたの周りの人々に感謝したほうがいい。

あなたは彼らとの分人で構成されている。

 

この考えは何も科学的に根拠のない話ではない。自己というものが脳の機能で現れたり消えたりするものだと知っていれば、誰かと会うたびに「その人向けの自己」が再構築されるのもおかしな話ではないとわかる。その再構築の材料に使われるのは、その人との記憶だ。

 

同郷の友人と会えば、長い間忘れていた方言を勝手に口が話し出すかもしれない。

自分をいじめていた人と再会した時、急にいじめられていた時に戻ったような、無力感に襲われるかもしれない。

 

これらは全て脳の自己生成機能によるものだと考えば理解しやすい。

 

私たちは誰かが悪事を働くと、それが本性だったんだと勘違いしやすい。

 

「ネットで悪口を書くようなやつだったなんて、本当はそんなやつなんだな」

「どこにでもいる真面目な子でした、まさかあの子が」

 

だが、本当の自分なんてものは存在しない。ネット向きの分人、凶悪な分人を一部に持っていただけだ。

 

この考え方に出会って、小学生の時に大好きだったある小説の中の言葉を思い出した。

 

私は単数ではない

 

つづく

 

 

 

分人主義 自己について

 地獄は頭の中にある

             伊藤計劃 「虐殺器官

 

自己、というのは人間だけが持つ感情らしい。

進化心理学によれば、孤独や怒りと同じく、人間は複雑なコミュニティの中で自己という感情を進化させてきた。

 

「私は私だ」「あなたと私は違う」

 

こんなことを考えられるのは人間だけだ。そのおかげで、「私はこう考えていると彼は考えているだろう」といった複雑な思考が可能になり、高度で巨大な社会を築き上げた。そして、ある意味では地獄が始まったとも言える。人間の頭の中で。

 

人間は自己というものがあるせいで、三つの世界を生きなければならない。

過去、現在、未来。

 

「空を飛ぶ鳥は現在の苦しみしか感じない。

だが、三世に生きる人間は三つの苦しみを感じながら生きている。」

 

これは夏目漱石の言葉だ。動物が過去を悔やむだろうか?未来を想像して不安に駆られるだろうか?そんなことをできるのは「私」を持つ人間だけだ。

 

自己というのは感情と時間の基準点として働く。例えば、上司に怒られたとしよう。頭の中で反芻される言葉は、

 

なんで「私」が

「私」は悪くない

 

そういえば前にも「私」は同じミスをした

「私」はダメな人間なのかもしれない

 

「私」を中心に感情は広がり、その波は過去や未来にまで届く。そのせいで、現在を生きるということはとてつもなく難しいこととなった。

山月記に、自尊心と羞恥心から虎になってしまった男が出てくる。自分の過去の成功を省みて現在を見ることができなかった彼が、現在しか見据えることのできない動物になってしまったのは喜劇的でもある。

 

自己が持つこうした性質を見抜いた仏陀「無我」を説いた。

「私」を無くしてしまえばそこにあるのはおだやかな今だけだ。

 

私を無くすとはどういう状況か?

 

俺はバスケットボールの試合中、いわゆるゾーンに入れたと感じた瞬間があった。

自分と周囲が一体となり、何をすればよいのか頭ではなく体がわかっている状態。

面白い映画を見た時、思わず我を忘れて見入った経験が誰にでもあるだろう。

その時と同じような感覚だった。

その瞬間、自己というものは感じられなかった。

 

自己は不変のものではない。絶えず現れては消えるものである。

それが一貫して感じられるのはまさに自己のなせるわざだ。

 

自己の発生を抑え、無我を目指す。仏教は、そのためのテクニックを何千年も磨いてきた。瞑想、滝行、禅問答など。

 

しかし、そう簡単に無我の境地には至れない。

 

自己を無くそうとすると副作用も出てくるのだ。無我になろうとしているのに余計に自己に気を取られたり、他者との繋がりを感じ取れなくなってしまうことがある。俺はこうした副作用にどっぷり浸かってしまっていた。

 

自己注目(自分に注目している状態を指す心理学の用語)は精神に多大な負担をもたらす。

自己を越えるためには、自分の外に目を向けなければならない。

 

分人主義。続く。

 

 

 

 

 

そういう人に私はなりたい

「めんどくせえな」って頭かいて 人のために汗をかいている そんでなんでもねえよって笑う そういう人になりたいぜ

 

     amazarashi「そういう人になりたいぜ」

 

 河合隼雄は「感謝ができるのは強い人だけだ」と「心の処方箋」の中で述べていたが、僕は「人に優しくできるのは強い人だけだ」と言いたい。

 

 無条件に人に優しくするというのはとても難しいことだと思う。僕のような弱い人はいつも自分のことばかり考えて、人を助けるなんて思いつかない。そして、常日頃世界から害を受けていると思い込むので、たまに(その世界から)優しくされるのは当然でも優しくするなんてことはしない。「そんなことをしては自分の方が相手より下であることを認めることになるのでは?」なんて考えも浮かんでくる。

 

 人に優しくできるのは、余裕があって、強くて、適切な自尊心を持っている人だ。「優しい人」というと、いつもおばあちゃんを思い出す。

 

 僕は物心ついた時からおばあちゃんと暮らしていて、親に叱られたりするとすぐにおばあちゃんのところへ駆け込んでいた。そういう時、おばあちゃんはいつも優しく話を聞いてくれたので僕は救われたような気持ちになった。

 

 おばあちゃんとの思い出として一番印象に残っているのは小学校の授業参観だ。僕はわざわざ来てくれたおばあちゃんにいいところを見せようとして、先生の質問に手をあげて発表をした。でも、実はあんまり質問の答えが思い浮かんでいなくて、話している途中で支離滅裂になって途中で黙り込んでしまった。その後に当てられたクラスの優等生は完璧な答えを発表した。その時の恥ずかしい気持ちは今でもよく覚えている。

 落ち込んで家に帰ると、おばあちゃんは笑顔で「よく頑張っていたね、すごいね」と言ってくれたので、なんだか泣きそうになった。

 

 そんなふうに無条件に存在を肯定してくれる人がいた、という事実は今でも僕の支えになっている。

 

 僕がなりたい人間は、本当になりたいのは、一千万円を稼ぐビジネスエリートでも大勢の上に立つ人でもなく、おばあちゃんのような優しい人だ。他人のためになんの疑問もなく動けるような、そんな人だ。それを認められるようになるまで、随分と時間がかかってしまった。

 

  他人からひどいことを言われても、おばあちゃんなら笑って受け止める。本当に耐えられないのは自分が自分を愛せないことだと認められるようになるまで、随分と時間がかかってしまった。

 

 自分が自分を好きになるために、おばあちゃんのように優しい人に、そういう人に私はなりたい。